父の死に際しまして
2019/02/12
○新年早々暗い話で恐縮です。父が死ぬ。非常に普通であたり前のことです。当たり前のことが、息子にいろいろな感情や状況を生じさせて、より大人にする。生き物としてのサイクルなのでしょう。自分の死もはっきりと認識するようになりました。
○父を見送るにあたりここ1年くらいは、老人の医療・介護について勉強することになりました。一貫して日本の社会は「生きている」ことが最も尊いとしています。当たり前で分かり易く犯罪抑止という意味でも、完全に正しいです。ただ、本人や家族の幸せと一致しないと思います。
○父は認知症でした。晩年の父は、従来の人格ではなくなっていました。本人が生きていることにどう感じているのか、楽しいのかなと想像しました。周りにとっては体が元気な認知症への対応は、非常に大変で、他の条件もあるので受け入れ施設を見つけるのは難しかったです。そして肺炎で入院したのですが、周りの患者に本人は意図なく被害を与えるしこれまた大変です。そして肺炎になりだすと、本人の体もその時点より回復することはほぼありません。
○親の末期の方針に関する判断は、必ず迫られます。当然のことながら人によってかなり違うでしょう。「親の面倒はガッツリ見て当然」「自分が親の死期を早められない」「親が可哀そうで見てられない」「自分が辛すぎる」等々人の考えは様々です。私は、父が人という生物として人生を全うしたと思ったので、一切延命措置等はとりませんでした。
○父の最期の生活は、施設だったのですが、本当に衛生的で本人も穏やかでした。個人ではとても提供できません。感謝しています。たまたまですが、非常に恵まれた状況だったと思います。延命措置なしに淡々と亡くなる事は、生を最優先する社会システムの中、普通にはできません。何かしらの環境整備の努力が必要です。亡くなろうとする人も苦しみ、周りも追い込まれて介護離職当然くらいの雰囲気にします。そんなことしたら、幸せな人生を全うできません。関係する誰にとっても不幸です。少なくとも、多くの人が、今から長く生きて行く人達の幸せの方が尊いと感じる世の中になってほしいと思います。